毎週火曜日は、大学で非常勤講師をしている。この日はリフレッシュの意味も含めてバスや電車で移動する。当たり前だけどバスや電車は、普段乗っている車や自転車より大きい。
大きい乗り物というのは、これまた当たり前だけど沢山のパーツから出来ていて、その結果どれかが壊れてもなんとか他の部分で補われる事が多い。
例えば、電車の内装のボルトが緩んでも多くの人は気が付かないだろう。でも、これが自転車のボルトだったらうまく走らないだろうし、何かしら乗っていておかしいと思うのではないだろうか。自転車のパーツに無駄なモノは殆んど無い。

バスや電車に乗った時イメージして欲しい。大きな構造体と小さなパーツが組み合わさって移動している、軋みやねじれ。それらがシビアに相互依存しているわけではなくて「まあ無くてもいいパーツ」もありつつ、共鳴しあっている様子を。

特にバスは、感覚を研ぎ澄ませて乗ってみると思っている以上にねじれ、軋んでいるのが分るだろう。
降車する時に押すボタンは、移動する機能には関わっていない。でも、存在は感じる。

僕は乗り味という言葉が好きだ。乗り物に乗った感触を「味」になぞらえるセンスは良いと思う。

大きな乗り物の「味」は濃厚で、深い。